大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋高等裁判所 昭和36年(う)267号 判決 1963年10月31日

主文

本件は被告人が昭和三六年八月一〇日付控訴取下申立書をもつたなした控訴の取下によつて終了している。

理由

本件申立の要旨は弁護人鷲見弘の差しだした控訴取下無効申立書及び被告人本人が差しだした上申書に記載されているとおりであるから、ここにこれを引用するが、所論は要するに、被告人は極度に異常な精神錯乱ないしこれにちかい精神状態において控訴の取下をしたのであるから、その取下は無効であるというのである。

所論に鑑み記録を精査し、当審においてなした事実取調の結果を参酌するに、まず被告人が昭和三六年四月二二日名古屋地方裁判所において強姦殺人被告事件について、有罪と認定せられ被告人を死刑に処する旨の判決の言渡をうけたので、これを不服として同年四月二八日原審弁護人がまず控訴の申立をなし、ついで同年五月二日被告人も控訴の申立をしながら、同年八月一〇日当高等裁判所へ被告人名義の同日付控訴取下申立書を提出したものであることは記録上明らかである。

ところで、証拠を総合すると、被告人は強度の吃音者であつて、原審判決の言渡のすこし前ごろからつよい厭世感におそわれ、死刑の判決の言渡をうけながら控訴の申立もなさず、名古屋拘置所の看守ら担当職員の懇切な指導と熱心な勧奨にも耳を藉そうとせず原審弁護人がなした控訴の申立にすら、むしろつよい不満の意を示していたほどであつたが、その後ようやく翻意し、みずからも一旦前記のごとく控訴の申立をしたけれども、間もなくまた気がかわり、やはり控訴を取下げたい旨つねに口にするにいたり、当審の公判にも出頭することを肯せず、同年七月二二日当高等裁判所へ宛て「一審裁判所で申したことに間違いない。また何も弁解することはない。一日もはやく刑に服したいから早く判決をしてほしい」旨の上申書を差しだし、ついで拘置所の看守ら担当職員の実に三日間にわたる熱心な指導と諫止にもかかわらず、前記のような控訴取下書を提出するにいたつたのである。被告人は元来知能水準こそ大体正常知の範囲内にあるが、病的ともみられるような短気かつ一徹な性格の持主であつて、本件において老婆と幼児の二名までも惨殺したことに対するふかい悔悟と絶望の念から、熟慮のすえ取下の挙にでたものであることは疑なく、その当時における被告人の精神状態としては、かくのごとき場合被告人のような異常な性格の持主ならずとも、その心の平静を保つことの至難なことはいうまでもないのであるから、被告人が当時その精神状態に可成りの動きを来たしていたであろうことはもとよりこれを窺知するに難くはないけれども、そうかといつて所論のように被告人が精神錯乱などにより自己の防禦上の利害を理解し、それにしたがつて行動する能力を欠如していたものと認めるに足る証拠は存しない。なお弁護人の所論引用の刑事訴訟法第三六〇条の二は死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に処する判決については、上訴権の放棄を許さないものとしているけれども、その法意は軽卒になされることのあるべき上訴権の放棄を防止しようとするにあるのであつて、すでになされた上訴について、この程の判決に限り、上訴の取下を一切許さないものとする趣旨でないことは多言を要しない。したがつてこの規定を類推又は拡張解釈して本件控訴の取下を無効と解すべきものではない。してみると、被告人が本件被告事件について、昭和三六年八月一〇日付控訴取下申立書によつてなした控訴の取下は有効であつて、本件はこれにより終了したものというべく、よつて主文のとおり判決する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例